| 2005.07.04 Monday/20:14 |
今も変わらず浜田省吾ファン |

僕には尊敬する人が何人かいるが、その中の一人が浜田省吾さんだ。
僕が15才の時、ラジオで初めて彼の曲「路地裏の少年」を聴いた。
その時の衝撃は今でも鮮明に憶えてる。
必死になって、ラジオから流れているその詩を記憶した。
浜田省吾、浜田省吾・・・と忘れないように何度も唱えていた思い出がある。
高校受験をひかえていた僕にとっては応援歌であり、道しるべでもあった。
僕が高校に進学してまもなくアルバム「J.BOY」が発売された。
それは誇りを失いかけた日本人に対するメッセージソングで、J.BOYという言葉そのものが時代を表現する言葉としてあらゆる所で使われていき、それとともに彼は苦労の末、スターダムにのし上がることができたのだ。
僕が彼を尊敬する一番の理由は、どんなに曲が売れようが決してマスコミに露出せずにデビュー当時と変わらないスタンスで、今もライブで音楽活動をしファン層を獲得していってるところである。
おそらく彼の素顔を知る人は、彼の根っからのファン以外にはいないだろう。
それはロックスターにこだわり続けた彼の譲れないスタンスなのだ。
彼の研ぎ澄まされた感性は、おそらく広島原爆の被爆者であった父の存在とその戦争の敵であったアメリカからセンセーションを巻き起こしたビートルズの存在という矛盾から生まれたものだろうと僕は思う。
「J.BOY」で夢であったロックスターに上り詰めたちょうどその年に彼の父は亡くなった。
その死を知っていながら、彼は全国ライブを敢行したのだった。
そのライブで語ったことは、父親の死ではなくあの尾崎豊さんのことだった。
「みなさん、彼がコンサートに来たときはぜひ行ってあげてください!」
そこで僕は尾崎豊さんの存在を知ったのだ。
その年は覚せい剤で捕まった尾崎豊さんが釈放された年でもあったのだ。
後に知ったことだが、尾崎豊さんが釈放されて再び音楽活動をしようとあらゆるレコード会社を回ったがどこも受け入れてくれなかったとき、その話を聞いた浜田省吾さんが自分の事務所に招き入れ救ってあげたそうだ。
同じロックミュージシャンとしての才能を評価していて、その才能を伸ばしてあげようとの判断だったらしい。
浜田省吾さんはそんな懐の深さを持った人なのだ。
彼はROAD&SKYという事務所に所属している。
実はこの事務所も彼が立ち上げた会社で、今は有名なミュージシャンとしてはスピッツが所属している。
この会社を設立するときのエピソードもある。
彼が呼びかけて作った会社だから、本来、彼が社長に就任するというのが一般的なのだが、彼は「ミュージシャンと経営者を兼務することはできない。ミュージシャンは音楽を作ることが仕事だ。」との理由で出資だけをして、親友に社長の座を預けたという。
尾崎豊さんはほんの僅かしか彼の事務所にはいなかった。
彼は野心があったため、早くに恩師の事務所を去り、自らの会社を立ち上げて社長に就任した。
実はそのとき、浜田省吾さんは彼に忠告している。
「尾崎くん、ミュージシャンは経営者をやっちゃいけないよ。音楽が書けなくなるから・・・」
その忠告を無視して、彼は断行したのだった。
後にそのことが引き金となり、尾崎豊さんはあのような死をとげることとなったのだ。
尾崎豊さんの死後、因果関係はわからないが、浜田省吾さんのしばらく音楽活動を休止してアメリカを一人旅していた時期がある。
紆余曲折があり、浜田省吾さんは来年デビュー30周年を迎える。
先月「i am a father」というシングルをリリースした。
最近、隅っこに追いやられてる日本の父親に対するメッセージソングだ。
この曲がヒットチャート5位を記録した。
この記録がすごい訳ではない。
この週のヒットチャートの20位に入ってる彼を除いたミュージシャンはみんな10代だったそうだ。
僕はこの瞬間、彼のすごさとともに自分自身の感性の確かさを確認したのだった。
7月6日(水) アルバム「MY FIRST LOVE」リリース

